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・・知覧 特攻隊・・・

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 4月22日(水)20時51分29秒
返信・引用
  第165振武隊
枝幹二大尉
特操2期生
富山県出身
6月6日戦死

昭和20年、敗戦の色が濃くなってきた頃、特攻隊の方々が日々死を目の前にして考えていた事とは、私は次のように聞かされています。
「自分たちの死によって、少しでも本土決戦の準備に余裕が出来る」「愛する祖国が敗れるにしても、死をも いとわない大和魂を示す事によって、敵に日本人の強い精神力を認識させ、敗戦後の日本の立場を少しでも有利なものに出来る」「自分の愛する家族が、敵の攻撃にさらされる日を一日でも遅らせたい」 と言った家族愛、祖国愛だったと聞かされています。しかし出撃を間近にして気持ちに迷いが出ないようにと、皆さん良く軍歌を唄っていたそうです。

枝幹二大尉の父は陸軍大佐で軍人一家と言う環境で育ったそうです。枝家は7人姉妹のほか、ただ一人男の子です。お父様は学徒兵として入隊した息子(枝幹二大尉)に経理部幹部候補生になることを勧めたらしいですが枝幹二大尉は航空兵を志願しました。航空兵を志願すると言う事はもちろん、特攻隊として死んでいくと知っての志願です。お父様が経理部幹部候補生を勧めたのに親にそむいてまで航空兵を志願し、身命を国のために捧げた枝幹二大尉。
あの時代、学徒兵が正義に対してすごく鋭感だったと聞いてます。
枝幹二大尉が姉妹宛てに送った遺書。
「姉妹の皆さん いよいよ本当にお別れ。 今でも例のごとくギャァギャァ皆とさわいでいます。哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。国のため死ぬ喜びを痛切に感じています。在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。時間がありません。ただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ」

(作戦命令を待っている時の気持ちを次のように書き残してあります)
あんまり緑が美しい
今日これから死にいくことすら
忘れてしまいそうだ
真っ青な空
ぽかんと浮ぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる
(作戦命令を待っている間に)
小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草のうえに
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
笑わせるな
本日十三時三五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば
使いなれた
万年筆を かたみ に
送ります

私の祖母、鳥濱トメはよくこう言っておりました「みんな、優しいの。みんな、私の子供にしたかったの・・・。」

桜、散りゆけど
想いは、散らん

知覧特攻の母 鳥濱トメ 孫
赤羽 潤より
 
 

【戦争秘話】7

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時15分49秒
返信・引用 編集済
  本当の目的は謎のまま

12月12日12時、打ち合わせにしたがって、青木大佐、中島中佐らと正明市駅待合室で落ち合った湯野川は、その夜、任務の解除を伝達された。潜行の目的、任務の内容については最後まで聞かされずじまいであった。受け取った2万円には手をつけていなかったので、青木大佐に返却した。

「12月1日の国勢調査と同時に実施された進駐軍の調査は厳しいもので、私のように終戦直後にその地に移り住んだようなのはいっぺんに浮かび上がる。危ないと思い、また任務の解除もあって、昭和21(1946)年1月、第二復員省(旧海軍省)に出頭して、本名の湯野川守正大尉として復員証明書をもらい、帰郷しました。私は公職追放の解除が遅く、兵学校で十期ほど上のクラスより後になりましたが、これは、国勢調査で怪しまれ、進駐軍の要注意リストに載っていたからであろうと推測しています」

その後の湯野川は、職にあぶれた七二一空の旧部下たちを集め、下関で、米軍の撒いた機雷を除去する掃海艇部隊の指揮官を務めたあと、戦時中、「箱舟」(構造を簡略化した戦時標準船)の大量建造で財をなし、軍令部顧問の肩書きももっていた川南豊作が経営する長崎の川南工業で沈船引き揚げの仕事についた。

川南工業は、三四三空の皇統護持作戦の主要メンバーが、秘密任務の隠れ蓑として勤めていた拠点である。源田大佐や志賀少佐、湯野川のクラスメート・山田良市大尉などもここで働いていたが、互いの任務や境遇について触れることは全くなかったという。

昭和23(1948)年、川南工業を退社、以後は水産業などいくつかの仕事に従事し、曲折を経て航空自衛隊に入隊。自衛隊では航空実験団初代司令などを歴任し、昭和50(1975)年、空将補で定年退官した。

「人生の半分は運命に支配される。どこでも行ったところでベストを尽くすしかありません。そういう意味で、海軍生活は性に合っていたし、のびのびとして楽しかった。もちろん、辛いこともずいぶんありましたが、それは戦争だから仕方がない。遭遇した青春のひとコマひとコマはすべて、いま微笑をもって振り返られると思っています」

七二一空の隊員たちは、部隊解散時の約束通り、昭和23年3月21日に40余名もの生存者が靖国神社に集い、昭和26年以降は毎年、戦没隊員の慰霊祭を行った。

桜花部隊には、七二一空(神雷部隊)のほか、昭和20年2月、錬成部隊として神之池基地で編成された七二二空(龍巻部隊)、7月、本土決戦に備えて、大阪湾に侵入する敵艦隊を、ジェットエンジン装備の桜花四三型乙をもって比叡山からカタパルトで発進し、迎え撃つべく開隊した七二五空があり、最盛期には、各隊あわせて1100名を超える元隊員が、戦友会員として名を連ねていた。

組織としての戦友会は平成8(1996)年に解散したが、その後も元搭乗員有志が世話人となって、戦没隊員たちの慰霊を欠かさず続けてきた。

「人間爆弾」という悲壮なイメージとは裏腹に、桜花搭乗員たちのプライドはきわめて高く、ほかの部隊には類を見ないほどの団結を、戦後75年を経て生存者が残り少なくなったいまもなお、保ち続けている。

七二一空桜花隊の分隊長は、戦死した三橋大尉のほかは平野晃大尉、湯野川大尉、林冨士夫大尉、新庄浩大尉が、平成になっても揃って存命だったが、一人また一人と鬼籍に入り、最後に残った湯野川が令和のはじめに亡くなったことは、冒頭で述べた通りである。

湯野川が戦後の一時期、負わされた秘密任務については、同様の指示を与えられ、地下に潜った若手士官が、海軍兵学校で湯野川の一期後輩だった泉五郎大尉など数名いたとされる。これを将来の日本再建に向けた人材温存の作戦と見る向きもあるが、そのほんとうの目的は、湯野川にも最後までわからないままだった。直接従事し、渦中にいた者でさえ全容を知らない。国家の「秘密任務」とは、本来そのようなものなのだろう。

ただ、『高松宮日記』(中央公論社)第八巻(昭和21年11月6日)に、湯野川だけがもしや、と感じ得る痕跡がわずかに残されていた。そこには、〈一四〇〇(筆者註:午後2時)情報会(松本氏)〉とあり、編者の註では「松本氏」について不詳とされているが、湯野川が当座の潜伏費用を受け取り、徳島の七二三空を離れるさい、青木大佐から、『もし、追加の資金が必要になったときには、横浜市中区山手町三三番地の松本某氏に連絡すれば、すぐに対応がある』と言われていたという。

湯野川は、これら「松本氏」が同一人物ではないかと考えていたものの、個人的な面識もなく、定かではない。20数年前、同姓同番地の人の死亡記事が新聞に載ったのを、湯野川は見た。現在、その地に痕跡がうかがえるものは残されていない。

終戦直後の日本陸海軍上層部が企図した、水面下における一連の策動、その全体像を把握するのはむずかしい。日本国の独立自尊の立場を守るため、連合軍による日本占領の方針如何によっては何らかの手が打てるよう、さまざまな動きがあったことだけは確かである。関係者が全て物故したいまとなっては、昭和史の謎として残るしかないのかもしれない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70653

 

【戦争秘話】6

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時15分20秒
返信・引用
  死の覚悟をもって暴挙を止めた司令長官

6月の沖縄戦終了後、七二一空は本土決戦に備えて各地に分散配備されるようになり、湯野川は、桜花隊の先任分隊長として、石川県の小松基地で終戦を迎えた。

「8月15日まで、私は戦争が終わるとは想像もしていませんでした。敵が本土に上陸してきたら、新しい桜花二二型を陸上爆撃機『銀河』に積んで戦う、俺の隊だけで敵の一個師団を引き受ける、と思っていた。玉音放送も、ソ連が参戦したのを受けて、天皇陛下が一億国民に頑張れとおっしゃるんだと予想していました」

搭乗員を、宿舎にしていた民家の庭に整列させたが、ラジオの調子が悪く、湯野川は、近所の民家に飛び込んで玉音放送を聞く。

「戦争終結を告げるその内容に衝撃を受け、全く心中穏やかではありませんでした。逆上に近かった、とも思います。隊員たちに、『戦争が終わったらしいが私には理解できない。今日まで数多くの仲間が血を流してきたのは何のためだ。さらに状況を見たい』と告げて、解散させました」

その晩、湯野川は、同室の陸攻搭乗員・古米精一大尉とともに、小松基地の近くで静養中の兵学校時代の教官・渡辺久少佐を訪ねた。渡辺少佐は、海軍省軍務局長・保科善四郎中将の女婿である。そこには、思いがけない重大な情報があった。保科中将から渡辺少佐に宛てた書簡である。

「巻紙に、ここに至る経緯をこと細かに述べたあと、終戦は陛下のご聖断によるもので、重臣の謀略などではないこと、短慮を慎むべきことが書かれていました。全身の血がサーッと退く思いでした」

翌8月16日の朝礼で、湯野川は、「休戦になった模様である。静観しつつ即応の態勢を維持したい」と訓示した。

「東大で国際法を学んだ要務士に聞くと、これは一時の休戦的なもので、敵が上陸してきたら戦ってもいいというので、よし、アメリカ軍がきたら皆殺しにしてやる、と、なおもやる気満々で待ち構えていました」

8月18日、会議のため指揮官参集の命令を受け、湯野川は七二一空飛行長・足立少佐とともに大分基地の第五航空艦隊司令部に赴く。そこに集まった指揮官たちのなかには抗戦論を唱える者も多く、戦争を継続すべきだとの強硬意見も出されたが、司令長官・草鹿龍之介中将の、

「私は聖慮を受け大命に従う。納得しがたい者はまず私を血祭りにあげた上で行動されよ。今日まで必死で戦ってきた諸官の血祭りになったとて、私は悔やむものではない。だが、私を血祭りにあげず、私が指揮をとる以上は、諸官の命令への服従を要求する」

との言葉に、皆、静まり返った。

小松基地の七二一空は、最後まで戦う気構えをくずさず、秩序を保ったまま、8月21日、草鹿中将の命を受けて解散式を挙行、3年後の3月21日(桜花隊初出撃の日)午前10時、靖国神社での再会を約して、22日に一斉に復員した。

極秘命令により身分を偽り地下潜行

8月22日の午後、隊員たちを一式陸攻に分乗させて全国に送り出し、水交社(海軍士官の宿泊、集会施設)で一人暗然としていた湯野川のもとへ、足立少佐より、至急基地に戻るよう電話があり、すぐに迎えの車がやってきた。

「司令室に入ると、小松基地指揮官・遠山安己大佐、足立少佐と、もう一人、連絡に来られた第七二三海軍航空隊(七二三空)飛行長・中島正中佐がおられ、君に新任務がある、受諾する決心があれば、第二徳島基地に行って七二三空司令・青木武大佐の指示を受けるようにと言われました。まだ私が役立てることがあるなら幸いと、夕刻、零戦で小松基地を離陸、徳島へ向かいました」

七二三空は、艦上偵察機「彩雲」による特攻部隊として編成されたばかりの航空隊だった。司令・青木武大佐は、艦上機搭乗員の出身だが、大尉時代の一年間、軍務を離れ、一民間人の立場で、要は諜報員としてソ連のウラジオストクに潜入した経歴を持つ。ここで青木大佐から湯野川に伝えられたのは、「地下に潜行してほしい」という、意外な話だった。

「ご自身の体験談もふくめ、地下に潜るさいの注意事項をいくつかと、これは中央で高松宮様のご承認を得て実行されていることだからと伝えられ、当座の潜伏資金として2万円(大卒初任給ベースで換算すると現代の5500万円前後)を渡されました。次の指示については、12月12日12時、山口県の正明市駅(しょうみょういちえき/現・長門市駅)で伝える、というだけで、潜行の目的など、それ以上の具体的な指示はいっさい受けていません」

湯野川は、青木大佐のアドバイスで、原爆の爆心地に近い広島市田中町十四番地を本籍地と定め、「海軍一等整備兵曹吉村実」の名で七二三空の復員証明書の交付を受けて、潜行生活に入った。同時に、湯野川大尉は、小松基地を飛び立ち行方不明、自決したこととされ、その存在が抹消された。

「潜伏先を決めるにあたっては、自分を知る者の誰もいない山陰地方をあちこち回りました。はじめは、小学校の小使(用務員)でもと思いましたが、小使というのは地元のことをよく知っていなきゃならんと言われ、農家の住み込みを当たってみたら、手伝いはありがたいが住み込みは困る、と断られました。

そしてようやく、9月上旬、島根県温泉津(ゆのつ)町(現・大田市)の浅野さんという老婆宅の2階に落ち着き、吉村実として、温泉津町役場の土木部技手の仕事につきました。月給は85円、当時としては高給でした」

湯野川が温泉津町役場に勤めていた9月下旬、七二一空桜花隊分隊長だった新庄浩大尉が、終戦連絡将校の腕章をつけ、

「この役場に吉村実さんという方がいらっしゃるそうですが」

と、訪ねてきた。岡村司令、足立飛行長からの伝令であるという。『大分の第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将に会ってその指示を受けるように』というのが、その用件だった。このとき伝令を務めた新庄は、筆者のインタビューに、

「湯野川大尉が吉村実と名を変えてそこにいることは承知していましたが、ただ伝言を伝えただけで、私にも湯野川さんの任務や目的はわからなかった。郵便だとほかの誰かが見るかもしれず、電話も盗聴の恐れがあるから、そのためだけに私を行かせたんでしょう」

と語っている。
七二一空桜花隊分隊長の一人であった新庄浩大尉(1922-2013)。終戦後、秘密任務の連絡将校を務めた(右写真撮影/NPO法人零戦の会)

湯野川の回想――。

「10月上旬、大分へ赴き、横井少将にお会いしました。横井少将の話は、『陛下の御身等に万一のことがある場合に備えなければならない。これを七二一空司令(岡村基春大佐)、三四三空司令(源田實大佐)が担当することになり、それぞれの部隊で人員を選抜し、拠点を構成する。三四三空はすでに動いている。七二一空は岡村司令から、君を指揮官に、との連絡があった。隊員を15名選抜し、事業拠点を持ってもらいたい。七二一空に渡す機密費が200万円用意されたが、いまはいろいろな状況で40万円しか渡せない』というものでした。

考える時間をひと晩いただき、草鹿長官にもご意向を聞きましたが、私自身、存在が抹消され、青木大佐関与の別件がすでに発動されていて、公式に表面で動けないこと、事業などと言われても全く自信が持てないことを理由に辞退させていただきました。後日の風聞では、横井少将はのちに、自ら皇族を海路で運ぶための機帆船を購入し、佐賀関で海運業を起こされたようですが……」

連合軍による天皇の処遇が不透明であった終戦直後、天皇の処刑を含めた最悪の事態に備えて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の一人をかくまい、養育するという計画だった。

「皇統護持作戦」とも呼ばれる本件については、司令・源田實大佐、飛行長・志賀淑雄少佐以下、20数名の隊員がすでに九州で行動を起こしていた(【戦後秘史】秘密裏に36年間も遂行されていた皇統護持作戦とは? https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66598)が、七二一空では、副長・岩城中佐が病気で倒れ、湯野川はすでに潜行生活に入っていたこともあって、動くに動けなかったのである。
 

【戦争秘話】5

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時14分32秒
返信・引用
  「それでも隊員たちの士気は旺盛でした。隊の編成当初には、心の乱れを見せた者も一部にはいましたし、悩みがなかったと言えば嘘になるでしょうが、あとはみんな張り切って立派にやっていましたよ。最善を尽くして死ぬのは本望、淡々と順番を待つ。私自身の思いは、出撃したら一人でも多くの敵をやっつけてやると、それだけでした。

まだ若かったですから、生きるの死ぬのということはあまり深刻に考えない。ただ、人に後ろ指をさされまい、士官として部下に恥ずかしくない態度でありたい、という気持ちはつねに持っていましたね」

七二一空は、司令以下、当時としては選りすぐりの人材を配して編成されていた。岡村司令は、昭和初年、編隊アクロバット飛行の「岡村サーカス」一番機として知られた戦闘機の名パイロット、岩城副長も歴戦の水上機搭乗員だった。

「岩城さんは激しい気性のなかにも温情のある人でした。九州の富高基地(現・宮崎県日向市)に進出したとき、敵艦上機の空襲を受けたことがありました。総員退避の命令が何度も出ていましたが、艦上機の空襲は、飛行機の軸線がこちらに向いていなければ絶対にやられることはないからと、私たちは皆、退避せずに土手の上で見物していた。すると突然、後ろからバリバリッと機銃を撃たれたんです。びっくりして振り返ると、幅10数メートルの川向うにある銃座で、岩城さんが真っ赤な顔をしてこちらに向けて機銃を撃っていました。

こりゃかなわん、と思って防空壕に退避して、夕方、腹に据えかねて岩城さんに文句を言いに行きました。『なんで我々を撃ったんですか?』 そしたら、『君はわからんのか!』と逆に怒られた。『海軍では敵前における命令違反は銃殺だ。空襲警報、総員退避、という命令が出ているのに君たちは退避せんじゃないか!』……まったくもう、恐れ入りましたよ」

桜花の母機となる陸攻隊の2人の飛行隊長も、足立次郎少佐(のち飛行長)が「さりげなく行こうや」が口癖の、スマートな士官だったのに対し、野中五郎少佐は、五色の吹流しや陣太鼓で部下の指揮を鼓舞する親分肌、正反対のタイプながら、いずれ劣らぬ名指揮官として、部下たちの信望を集めていた。

隊員もまた、前途有為な若者たちだった。富高基地で特攻待機中、宿舎にしていた防空壕のなかで、一人、夜遅くまで勉強をしている学徒士官がいた。明日をも知れぬ命でありながら、最後まで勉強しようとする姿に湯野川は心打たれ、「偉い! 君は本物だ」と声をかけたという。

東京帝国大学卒、予備学生十四期出身の内藤祐次少尉。戦後、大手製薬会社エーザイ株式会社取締役社長、会長を務める。ほかの隊員たちにもエピソードは尽きない。皆それぞれ、個性豊かで優秀なつわものが揃っていた。
 

【戦争秘話】4

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時14分8秒
返信・引用
  敵機が待ち構えていた

足立・湯野川隊が大打撃を受けたので、長崎県の大村基地に退避していた野中五郎少佐の指揮する陸攻隊(攻撃第七一一飛行隊)が急遽、鹿児島県の鹿屋基地に進出し、三橋謙太郎大尉を隊長とする桜花隊を抱いて3月21日、敵機動部隊を求めて出撃する。
昭和20年3月21日、出撃前に最後の敬礼をする桜花隊分隊長・三橋謙太郎大尉
桜花隊の発進

しかし、桜花隊を護衛するべき零戦隊も18日の戦闘で戦力を消耗していて、十分な護衛戦闘機を持たないまま出撃した陸攻18機(うち桜花懸吊15機)は、待ち構えた敵戦闘機に全機が撃墜され、桜花による初の攻撃は失敗に終わった。
昭和20年3月21日、米軍のガンカメラに捉えられた七二一空の一式陸攻。機体の下に桜花が見える。この日出撃した18機は、最後まで編隊を崩さず、敵艦隊に向かおうとしたが、全機が撃墜された

この日の戦死者は、桜花隊が三橋大尉以下15名、陸攻隊は野中少佐以下135名、零戦隊も漆山睦夫大尉以下10名、計160名に達した。
個性豊かで優秀なつわものたち

以後、桜花の出撃はのべ10回におよび、米側記録との照合で、駆逐艦1隻を撃沈、3隻に再起不能となるほどの大きな損傷を与え、ほか3隻を小破させたことが判明しているが、七二一空は、「桜花」搭乗員55名をふくむ829名もの戦死者を出した(陸攻搭乗員や護衛の零戦搭乗員、また零戦で特攻出撃した者もふくむ)。結果的に、期待された威力を十分に発揮することはできず、七二一空では、零戦に500キロ爆弾を搭載した爆戦隊を合わせて出撃させるようになった。そのため、零戦による航法訓練も念入りに行われた。
昭和20年4月8日、富高基地にて。別杯の盃を持つ飛行服姿の一番手前が湯野川大尉、右手前で電報を受け取ろうとしているのは副長・岩城中佐

4月14日には、攻撃第七〇八飛行隊の澤柳彦士大尉の率いる一式陸攻7機が、桜花を抱いて出撃したが、司令部のミスで、目標地点が攻撃隊に60浬(約111キロ)も誤って伝えられるということがあった。湯野川は、〈目標に到達するも敵艦発見せず。敵位置知らせ〉という澤柳機からの悲痛な電信を司令部で聞いて、おやっと思ったが、調べてみると最初の位置が間違っていたことがわかり、何たることを、と航空参謀に食ってかかったという。澤柳隊は、改めて指示された目標に向かう途中で敵戦闘機に捕捉され、全機が撃墜された。
 

【戦争秘話】3

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時13分38秒
返信・引用
  「人間爆弾」が救命具に

K1による訓練は各人一回のみで、それが終われば、あらゆる作戦に使用可能な『技倆A』とみなされる。その後の訓練は、零戦を使っての襲撃訓練などが主体となる。11月25日には桜花隊の分隊編成が行われ、第一分隊長・平野晃大尉(戦後、航空幕僚長)、第二分隊長・三橋謙太郎中尉、第三分隊長・湯野川守正中尉、第四分隊長・林冨士夫中尉の四個分隊編成となった(三橋、湯野川、林の3名は12月1日、大尉となる)。
昭和19年12月1日、聯合艦隊司令長官・豊田副武大将とともにおさまった七二一空の隊員たち。最前列左から4人め(矢印)が湯野川大尉。11人め豊田大将、その右に司令・岡村基春大佐

分隊長は、いざ出撃のさいには、自ら桜花を操縦して敵艦に体当りする立場の指揮官である。53名の搭乗員を預かる分隊長となった湯野川は、12月1日、海軍兵学校のクラスメートでもある三橋謙太郎大尉とともに、岡村司令同席のもと、聯合艦隊司令長官・豊田副武大将からじきじきに、フィリピン・レイテ島沖の敵艦隊への体当り攻撃の内示を受けた。予定期日は12月23日。そのため、辻巌中尉以下、七二一空の桜花整備員11名がフィリピンへ先発する。

「出撃はもとより望むところ。三橋が、『あと23日の命か。どうする?』と笑いながら話しかけてきたのを憶えています。ところが、私たちが乗るはずの桜花を輸送途中の空母『信濃』と『雲龍』が、相次いで米潜水艦に撃沈され、もう一隻の空母『龍鳳』は、目的地を変更して台湾の基隆に58機を輸送したものの、フィリピンまで運べず、作戦は中止になってしまいました。先発した整備員たちはフィリピンに残され、陸上戦闘で全員が戦死しました。あれは気の毒だった……」

「信濃」沈没時、生存者の救助にあたった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄(当時大尉)によると、「信濃」に搭載されていた50機の桜花は、弾頭をつけていなかったため、沈没時に機体が海面に浮き、それにつかまって救助された者が多かったという。「人間爆弾」が、はからずも救命具になったのだ。

いっぽう、「雲龍」は、敵潜水艦の魚雷を受けたのち、積んでいた30機の桜花の誘爆で轟沈したことが生存者の証言で明らかになったことから、その後の輸送は、敵潜水艦の目標になるのを避け、目立たない小さな輸送船で行うことになった。

米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による日本本土への空襲はすでに始まっていたが、昭和20(1945)年になると、日本近海に敵機動部隊が出没するようになり、艦上機による空襲もまた、猛威をふるい始めた。

3月18日、米艦隊発見の報告を受け、大分県の宇佐基地に展開していた湯野川率いる桜花隊に出撃命令がくだる。母機の陸攻隊(攻撃第七〇八飛行隊)指揮官は足立次郎少佐。だが、出発準備をほぼ完了、襲撃方法の打ち合わせを終えて、別杯の用意が整えられようとしていたとき、基地は敵艦上機の奇襲攻撃を受けた。執拗で激しい銃爆撃に、飛行場に並んだ一式陸攻18機の大半が地上で焼失した。

「よし、行くぞ!と覚悟を決めたところで、悔しかったですね……。このときはコテンパンにやられました。ほんとうに、悪夢のような光景でした」

と、湯野川は回想する。
 

【戦争秘話】2

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時13分12秒
返信・引用
  湯野川は翌日、「熱望」の意志を上層部に伝える。そして11月6日付で、新兵器「桜花」を主戦兵器として編成された第七二一海軍航空隊(七二一空。通称「神雷部隊」)に転勤を命じられた。七二一空は司令・岡村基春大佐、飛行長(のち副長)・岩城邦廣少佐、桜花隊と母機の一式陸攻隊、直掩戦闘機隊からなり、はじめから体当り攻撃を前提とした、いわばプロの特攻部隊だった。

「11月6日、茨城県の百里原基地に到着すると、七二一空本部はすでに神之池基地に移動していて、残留部隊の指揮官だった陸攻隊の野中五郎少佐に、『湯野川中尉参りました。よろしくお願いいたします』と着任の挨拶をしました。すると野中少佐は、『遠路はるばるご苦労さん。おや、お前さんきれいな目をしてるな。バージンか? 薄汚いバージンなど早く落としときな』と、恐れ入った指示をいただきました。

当時、着任の申告はあまり形式ばっていなかったように思います。数日後、兵から叩き上げたベテラン搭乗員・椛沢義雄中尉の着任の場に偶然居合わせましたが、敬礼を終えた椛沢中尉の第一声は『隊長! 来ましたぞ』であり、『来たな、ご苦労さん』というのが野中少佐の返事でした」
桜花の母機となる一式陸攻の飛行隊長・野中五郎少佐
全機が撃墜された「桜花」の初攻撃

ほどなく、神之池基地で、桜花の練習機型「K1」での滑空訓練が始まった。母機の一式陸攻から、ハシゴを伝ってK1の操縦席におさまると、風防を閉め、バンドを締めて各部を操作し、異常なければ『・---・』と、電信音で母機に合図を送る。高度3500メートル、投下のタイミングがくると、母機から『・・・-・』という信号が届き、最後の短符が耳に届くと同時に、K1は母機から切り離される。

「乗り込んだときはあまりいい気はしませんが、投下されてガーッと機首を突っ込んで、250ノット(時速約460キロ)ぐらいの高速で操縦桿を動かしてみたとたん、これはいい! と思った。舵の効きがいいし、すばらしく操縦しやすい。

零戦のようなエンジンのある飛行機だと、下手に急降下するとどうしても機首が浮いてしまいますが、『桜花』(K1)は自由自在、思ったところへきちんと持って行けるんです。逆説的ですが、『桜花』ほど安全な飛行機はない、とさえ思いました」
 

【戦争秘話】人間爆弾「桜花」隊長が終戦後に受けた「謎の秘密指令」1

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月29日(土)11時12分36秒
返信・引用
  一機で一艦を屠る「帝国海軍の最終兵器」

格納庫に置かれた特攻機「桜花」を見て、第七二一海軍航空隊に着任した23歳の湯野川守正中尉(のち大尉)は、「ずいぶん単純な飛行機だな」と思った。と同時に、「しかし、敵艦に命中すれば威力は大きいだろう。いまの日本にこれしかできないのなら仕方がない。おもしろい、こいつで戦ってやろうじゃないか」と決心した。

現在の茨城県鹿嶋市と神栖市にまたがる神之池基地。戦況が決定的に不利となり、戦争の帰趨が誰の目にも明らかになった、昭和19(1944)年11月のことである。

桜花は、1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して、敵艦に体当りすべく開発された超小型の飛行機で、「人間爆弾」とも呼ばれる。母機の一式陸上攻撃機に懸吊されて敵艦近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。文字通り一機で一艦を屠ることを目的とした、帝国海軍の最終兵器だった。
「人間爆弾」とも呼ばれた特攻機「桜花」

湯野川は大正10(1921)年、羽州米沢藩士の血を引く海軍大佐湯野川忠一の次男として、父の勤務先だった長崎県佐世保で生まれた。のちの聯合艦隊司令長官・山本五十六大将のの妻・禮子は、湯野川の父のいとこにあたる。幕末・維新の戊辰戦争で、米沢藩と越後長岡藩が同盟関係にあったよしみから、長岡出身の山本と縁戚関係になったのだという。
桜花隊分隊長だった湯野川守正氏(右写真撮影/神立尚紀)

昭和14(1939)年、東京の麻布中学校を出て、広島県江田島の海軍兵学校に七十一期生として入校。卒業後は戦艦「伊勢」に乗組み、さらに軽巡洋艦「阿賀野」水雷士としてソロモン諸島で戦ったのち、第四十期飛行学生となった。練習機教程を経て、大分海軍航空隊、筑波海軍航空隊で、戦闘機搭乗員としての訓練を受けていた。

湯野川が筑波海軍航空隊にいた昭和19(1944)年8月中旬、「必死必中の新兵器」の搭乗員の募集が行われた。新兵器の詳細は伝えられなかったが、フィリピンで初の特攻隊が編成される2ヵ月前のこの時点で、体当り攻撃はすでに海軍の既定方針だったのだ。

「大きな国難のなか、決死の覚悟は搭乗員ならひとしく持っていたと思いますが、一撃で死に至る任務にはやはり、多少の躊躇(ちゅうちょ)はありました。しかし、尋常な手段では勝てない戦争だとは自覚していたから、それがどんな兵器かはわからないが、有効な兵器があるなら結構なこと、これを立派に使ってやろうと決めました。もし戦争に負けるにしても、負けっぷりというのはあると思っていましたからね。

たった一つの命、それを有効に使ってやろうという気持ち。母が悲しむだろうとか、いろんなことが頭をよぎりましたが、私は次男で最初から戦死要員のつもりだったから、2時間ぐらいで悩むのをやめました」
 

よく指摘される、昭和の日本軍の問題点

 投稿者:Ken  投稿日:2020年 2月24日(月)19時25分19秒
返信・引用
  194 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2020/02/24(月) 19:07:06.48 ID:R9OeMqru0 [1/3]
@よく指摘される、昭和の日本軍の問題点。
情報の軽視、独善的な情報解釈、兵站=補給の軽視、戦略の欠如、失敗を認めない、人的損害の増大への無感覚、
戦力の逐次投入、自軍損害の隠蔽と戦果の誇張、情実人事、問題を指摘する参謀の排除、失敗の責任を誰もとらないこと。その精神文化の継承者が現政権。

https://www.battlesmagazine.com/

 

柳田國男「うつぼ舟の話」

 投稿者:Ken  投稿日:2019年12月12日(木)21時53分34秒
返信・引用
  2015年04月24日
柳田國男「うつぼ舟の話」
露伴全集第ニ十二巻『評釈 猿蓑』を読み了える。還暦を迎えて漸く俳句というものに目覚めたというのは遅すぎるのか否かは不分明だが、僕の祖父の書斎がまた一歩近づいたという現象を再び感じとっている按配で、この著を読み終わった後で「猿蓑」本体はなかったかと祖父の書棚を眺め回しているなかで、柳田國男集というものに出逢えて「おやおや」となった。まさか祖父も柳田に関心を持っていたなんてと思いつつ、目次をにらんでいると「うつぼ舟の話」という怪しげなタイトルにもしかして・・・と読んでいくにつけ驚いたのが、渋澤龍彦の『うつろ舟』そのまんまの伝承が記録されていたことだった。
「今から百六十五年前(この記事は大正15年のもの)の宝暦七年の八月の或日、弁慶法師の勧進帳を似て世に知られた加賀國の安宅(「安宅」という能、或いは「勧進帳」という歌舞伎で知られる)の濱に、一つのうつぼ舟が漂着したと言ふ旧記がある。「うつぼ舟」とは言ひふらしたけれども、其実は四方各九尺ばかりの厚板の箱で、隅々を白土にしつくひを以て固めてあった。開けて見ると中には三人の男が入って死んで居る。沖で大船が難破するとき、船主その他の大切な人、又は水心を知らぬ者を斯うして箱に入れ、運を天に任せて押し流す例があると言ふ。果たして其様な事があるものかどうかは心許ないが、たとへ死んでも姿だけは、何処かの海辺に打ち寄せられることを、海で働く人たちが願っていたことだけは事実である。」
として延々と書かれているが、なかで
「加賀の出来事から四十二年を経て、享和三年二月廿二日の真昼頃、常陸の原やどりといふ濱に、引き上げられたと伝ふるうつぼ舟などは、其形たとへば香がんの如くに円く、長さは三間あまり、底には鉄の板金を段々に筋の如く張り、隙間は松脂を以て塗り詰め、上は硝子障子にして内部が透き通って隠れ無く、覗いて見ると一人の生きた婦人が居り、人の顔を見てにこにこして居たとある。此の話は兎園小説を始めとして、当時の筆まめ人の随筆には幾らも出て居る。何れも出処は一つであるらしく、疑ひもなく作り事であった。その女は年若く顔は桃色にして、髪の毛は赤いのに、入れ髪ばかりが白く且つ長かった。敷物二枚の他に瓶に水二升ほど入れ、菓子様の物及び肉を燻ったやうな食物もあったとある。又二尺四方の一個の箱を、寸刻も放さず抱え持ち、人の手を触れしめなかった。浦人の評定では、多分蛮國の王の娘などで、密夫あって其事露見するに及び、男は刑せられたが王女為れば殺すに忍びずして、此の如くうつろ舟の中に入れ、生死を天に任せて尽き流したものであらう。然からばその大切にする木の箱は、定めて愛する男の首ででもあらうかなどと、言語は不通であったと謂ふにも拘わらず、驚くべき確信を以て説明する者があったと記して居る。」
これが渋澤の作品となると
常陸の国はとらどまり村に、享和3年の初夏、空飛ぶ円盤状のウツロ舟が漂着した。中に異様な風態の女が一人いる。まだ生きていた。それが目は青く、髪は金色だから、これはどう見ても西洋婦人なのである。この女が一個の筥(はこ)を持って離さない。
 村人たちはその夜から詮索を始めた。女のこともあったが、筥の中身が知りたい。おおかたは夫の首かなんかだろうということになったけれど、こういうときは何も知らぬ子がたいていは冒険をするもの、結局は仙吉という少年がウツロ舟に入りこんだ。入ってみると、女が血の色の酒を飲みながら婉然と坐っている。やがて女が舞いはじめ、仙吉が固唾をのんで凝視していると、まるで鞠を投げるように自分の首を投げてきた。とっさに仙吉は両手でこれを受けとめたが、膝の上で女の首が微笑して、ふふふ、と、こう言った。「あの筥の中が見たいのでしょう」。
 思わずこっくり頷くと、首のない胴体がするすると筥のところへ進んで、恭しく筥を掲げると、その蓋をあけて中身を取り出した。それがなんと仙吉の首なのだ。ハッと自分の首に手をやると、はたして自分の首はない。
 と、思ったのも束の間、女と仙吉には首も胴体もつながっていて、今度は女が仙吉に体をくっつけて覆い、仙吉をなすがままに犯していった。
 ただただ仙吉が呆然としていると、女はつつと進んで衣をまくり、筥の上に跨がった。そこで女がしたことは小水だった。ところが仙吉の耳にはその音が、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と聞こえる。その音が仙吉を陶然とさせ、ついには何がなんだかわからなくなっている。
 こうして、翌日から仙吉の姿が見えなくなったというので、村は大騒ぎになったのである。はたしてウツロ舟もいなくなっている。では、いったい何がおこったかというに、ここで澁澤龍彦は二つのエピソードを挟んでみせた。
 ひとつは、それから200年ほどたったころ、東京を発した大型旅客機が離陸して3時間ほどたったころの話。乗客の一人の中学生がイヤホーンで機内サービスの音楽を聞こうとしたとたん、ロックのリズムのまにまに「諸行無常、是生滅法‥‥」が呟かれている。中学生は驚いて、それを聞きとろうとしたが、もう聞こえない。そこへステュワーデスがきて、その腰やら胸やらを見ていると、なんともたまらなくなってきた。少年はトイレに走って慌ただしく事をすませ、さて水を流そうとすると、また、「諸行無常、是生滅法‥‥」。
 もうひとつは、ずっと昔々のお話で、天竺に天狗の王国があったころ、あるとき王子が思い立って大雪山を越えて震旦に渡ろうとしたとき、氷河の裂け目から声が聞こえた。耳をすますと、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と聞こえる。訝しくおもって父親の天狗に尋ねると、それは法文だという。それが聞こえてきたからには天狗の王国に攻撃がもたらされる前兆かもしれないとの説明である。
 王子は武勇をもって鳴る少年だったので、そんなことを気にもしなかったのだが、さて父親が亡くなってみると、この話が気になってまた氷河に出掛けた。けれどもすぐには聞こえない。よく聞くと水の底が鳴っている。そこで丸木舟に乗ってしばらく進むと、まだ遠くの水の流れに乗っている。法文が少しずつ高まっていくのに導かれるように、王子は結局は震旦を越え、筑紫に及び、さらに門司をすぎ川尻にいたり、淀川、近江とたずねると、法文の音はますます高まっていく。ついに比叡の横川から流れ落ちる水音こそ法文にちがいないと知った。その音は妙音ともいうべきで、王子は陶然と聞きほれる。
 ふと見上げると、そこには四天王をはじめ諸天童子が威儀をただして水を守っている。ついに王子が「この法文はなぜに水となって聞こえるのか」と問うと、童子笑って、次のように言った。「これは比叡の僧たちが厠に流す小水の音、それが法文を唱えているのでございます」。
てな具合に仕上がっている。
もうひとつ最近の発見で、水上勉の作品に「うつぼの筺舟」というのに巡り会った。これはかなり現代風に仕上がっていて、柳田の発見の最初の方の言い伝えに寄っている。つまりうつろ舟のなかには女性の死体が収められていて、流れ着いた新潟や流された先と想定された能登の県警や当地の警察署がその死体の正体と他殺体だとすればその犯人を調査すべく松本清張並のタッチで描いている。実は京都の和尚が愛人扱いをしていた若い女を、そこに出入りする寺大工が助けて逃げた。二人は手に手をとって北陸の故郷に戻って暮らしていたのだが、寺の追っ手に迫られて女が自殺する。一人残された大工は悲しみのあまり一漕の筐舟を作り、その薄幸の女をそこに入れて日本海に流したという顛末である。
漂流物についての柳田の関心は、晩年の『海上の道』に愁眉されて、島崎藤村は「椰子の実」という歌をつくったこととも関連している。これは日本人の原型がどこからやってきたのかということに繋がっていて古代ロマンを呼び起こす大本でもある。

https://zdd.at.webry.info/201504/article_1.html

 

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